ビールの歴史 appendix : 「ビール」の語源(1)

ラテン語のbibere説

ファルネーゼ家のカエサル
ナポリ国立考古学博物館

「ビール」という世界中で愛されている飲み物ですが、その名の語源は明かではありません。そもそも、基本的な語彙であればあるほど語源ははっきりとしないものなので、これはある意味、ビールの普遍性を間接的に証明しているとも言えますが、そうはいっても、ある程度の確からしさでもってそうであろうと推定できることや、広く信じられている俗説などもありますので、一通り見ておくことにしましょう。

日本語における「ビール」という語の由来は、始めて入ってきた時代が鎖国中の江戸時代であったことなどから考えても、他の多くのものと同じくオランダ語が起源であったと考えられています。
そして、オランダ語のbierは、英語beer、ドイツ語Bier、フランス語bièreなどと同じ起源でしょう。ヨーロッパ諸語におけるこれら同系列の語を総称して、ここでは便宜的に「BEER/ピール」と記すことにします。それでは、「BEER/ピール」の起源は何語なのでしょうか。

一般的に「BEER/ピール」はラテン語の「飲む」という動詞bibereから来ていると言われていますし、辞書にもその通りのことが書いてあります。ビールというのは飲み物の中の飲み物、飲み物の王様である、実際にヨーロッパに行けば水よりもビールの方が安いこともあるぐらいで、それこそ日本語で言うところの「水でも飲むように」飲んでいますから、「飲むこと」という基本中の基本動詞がその名前の由来である、つまり、「ビール」というのは「飲み物」と言うに等しいというストーリーは、ビール好きにとっては思わず笑みのこぼれるような、ロマンチックこの上ない語源物語ではないでしょうか。
しかも、これにはおもしろい逸話がありまして、かのカエサルは胸焼けがするという理由であまりワインを飲めず、ビールの軍門に降ることとなった、よって、カエサルの征服したガリアの地でbibere語源の「BEER/ピール」系列の語が今でも使われている一方で、カエサルがやって来なかったスペインでは他の系統の語が使われているというものです。ビールの語の由来はカエサルにあり、ガリアを征したカエサルを征したビールということですね。
カエサルの名言 veni vidi vici (来た、見た、勝った)をもじって、veni bibi vici (来た、飲んだ、勝った)というジョークがあるぐらいです。

bibereから派生したとは考えにくい

ここまではビールの歴史に関する多くのウェブサイトにも書かれていることですし、実際、疑いの余地ありという留保つきではありますが、辞書にも「BEER/ピール」の語源としてbibereが挙げられています。
しかし、びあトモでは色々と検討した結果、このbibere語源説は間違っていると考えています。

まずラテン語にはcervisiaというビール(正確には麦の醸造酒で今日のビールの前段階のもの)を指す語がすでにありました。そこから派生した語が一部のロマンス諸語で、例えば、先ほども挙げたスペイン語のcervezaのように、ビールの指す語として今でも使われています。
ちなみに、このcervisiaの語源についても「ケレス(ceres 豊穣の神)の力(vis)」であるという、いかにもロマンチスト好みの俗説がありますが、おそらくはケルト語のcerevisiaが語源で、これは鹿を意味するcervusの派生形であろうと考えられています。「鹿の毛皮の色をした飲み物」という意味ではないかと主張している学者もいます。
それはともかく、ラテン語にはビールを指す別の語がすでに存在していたこと、そして、ラテン語圏と言いますか、古代ローマで飲み物と言えばビールではなくワインであること、それにもかかわらずビールのことを「飲み物」という最も一般的な名称で呼ぶということは、おおよそ考えにくいという、文化的背景が一つ目の理由です。

また、bibaxという「酒飲み」という語もあり、これは当然ワインを痛飲する人のことなのですが、そして、この語は明らかにbibereの派生語であるのに、さらには、potareという「大酒を飲む」というbibereよりは特殊な語もあり、もちろん、これもワインを飲むことを通常は意味しており、その名詞形もあるというのに、より基本的な語であるbibereだけがビールのことを指す可能性は極めて低いという、関連語彙からの推測も理由として挙げられます。

そして、何よりもびあトモスタッフが決定的であると考えているのは、語源とされているbibereが動詞の不定法であるという文法的理由です。
不定法というのは英語で言えば動詞の原形に当たります。英語は原形と現在形が基本的に同じなので分かりづらいのですが(違うのは例えばbeとam/are/is)、ラテン語では動詞が活用するので、「私は飲む」はbibo、「彼は飲んだ」はbibebatと、そこから「BEER/ピール」のどれかが派生してくるとは考えにくい形になってゆきます。
原形というぐらいだからそれがオリジナルで、実際辞書にも原形で載っているし、そこから派生するのは当然なのではというのが現代人の感覚ですが、これは正に現代人の思い込みであって、辞書も文法も整備されていないところにおいて、不定法というのは動詞の主語や目的語として使うなど、特殊な役割をもった形式でしかなく(不定法という名称は「人称と時制と態が定まっていない」という意味です)、それが物を指す名詞に転用されるというのは極めて不自然なことなのです。ちなみに、ラテン語の辞書では動詞は一人称単数現在形で載っています。
では、動詞から名詞が派生したとしたらどういう形を取るのかというと、分詞を名詞として用いるのが一般的です。この場合、飲み物=飲まれるものということですから、受動の意味を表す完了分詞bibitumを直接の語源とすることになり、やはり、音韻変化として「BEER/ピール」になるとは考えにくいところです。

以上の理由から、ラテン語から俗ラテン語、そして、ロマンス諸語から借用でゲルマン諸語へという、通常の経路で「BEER/ピール」が伝わっていったということは、ほぼあり得ないと私たちは考えています。では、この「BEER/ピール」はどこから来たのでしょうか。

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